galleria!

川を見てゐた手だらうかうつすらと電車の窓にしろき跡あり

「造本装幀コンクール」レポート①

4日、東京国際ブックフェアへ。小雨が風で吹き付ける不安定な天気。しかし、涼しくて過ごしやすかったです。例年は蒸し暑く、汗だくで会場をめぐることになるのだとか。会場の一画では、第48回造本装幀コンクールの入賞作、出品作が展示されていました。どの本も手にとって見ることができます。

f:id:leto-kafka:19800101000039j:plainf:id:leto-kafka:19800101000106j:plain

↑ 展示風景と、右は堂園昌彦さんの歌集『やがて秋茄子へと到る』。

f:id:leto-kafka:19800101000059j:plainf:id:leto-kafka:19800101000138j:plain

↑『galley』を手にとるお客さん。思わず「こんにちは。著者です」と声をかけてしまいました。びっくりさせてしまったようです。扉に注目されたとのことだったので「それはパチカという紙でして、熱を加えると・・・」と解説(濱崎さん、永田淳さんからの受け売り)。写真右はパンフレット(500円)。入賞作のページでは、使われている紙の種類が明かされています。それぞれの作品に付けられた審査員の講評も読み応えあり。それとは別に、選考過程の詳細も。辛口コメントあり、一度落選した作品の復活劇あり、と熱い議論が行われたもよう。

「pen」6/15号「美しいブック・デザイン」

 水無月に水無月食べぬままに過ぎ小豆のやうなつぶつぶが降る

水無月のうちに水無月を食べよう、と毎年思いますが、今年も食べないまま7月になりました。水無月を食べたことがありません。小豆の味は想像できますが、小豆がのっている、ぷにぷにに見える白い台の部分は、ういろうやようかんのようなものを想像したらいいのでしょうか。食べたいと念じながら食べるに至らないもののおいしさは脳内でふくらむばかりです。食べたことのある人らは「べつに」「そうでもないよ」「フツー」といいます。そういえば「水無月が好き」という人に会いません。ああ、いざ水無月を食べてがっかりしたらどうしよう。がっかりしないために、間違いのない水無月を研究して選んで臨まねば、と思っているうちに、私と水無月の距離はますますひらいていきます。食べたことのある人らは非情なもので「どこのもたいして変わらんよ」と言います。・・・めげないぞ。

さて、不覚でした。雑誌「pen」の前号(6/15号)の特集が「美しいブック・デザイン」でした。遅ればせながら書店に走りました。デジタル版も買えます。

http://www.pen-online.jp/magazine/pen/pen-361-bookdesign/

フランス、スペイン、ドイツ、オランダ、スイスの装丁の最前線が取材されています。日本人の装丁家としては、クラフト・エヴィング商會、名久井直子、水戸部功が登場。クラフト・エヴィング商會は、黒瀬珂瀾さんの歌集『空庭』を装丁されていました。名久井さんは錦見映理子さんの歌集『ガーデニア・ガーデン』や雪舟えまさんの『たんぽるぽる』。なるほどね〜。どれも洒脱でした。

「ブック・デザインの歴史を、総ざらい!」の後に、「デザインよし!の面白い10冊」のコーナー。第1位が「世界で一番美しい樹皮図鑑」でした! やっぱりね! これは手が伸びますよ。発売されたとき、私は書店で、濱崎さんの装丁とは知らずに手に取りました。「pen」では、帯を外した「樹皮図鑑」の立ち姿がどーんと写真に。私の素人写真ではお伝えできなかった樹皮っぽさをぜひ見ていただきたいです。

「短歌研究」7月号

連続の投稿でごめんなさい。書けるときに書かねば、と焦っております。

「短歌研究」7月号で「短歌時評 助動詞から見えること」を書きました。同誌で8月号、9月号と短歌時評を担当します。ご一読くださいましたら幸いです。

7月号はこちら→ http://www.tankakenkyu.co.jp/tankakenkyu/new.html

7月号は、なんだかもうドバッと書いているのですが、ここで取り上げている「短歌研究」4月号の島内景二氏の評論「助動詞の力と、その力への反発」は必読ではないかと思います。藤原定家と、永福門院と、塚本邦雄の有名歌に助動詞がない、という。正岡子規も旧派和歌の助動詞の多用を批判していたという。

古典和歌から現代和歌まで串刺しにした上に、華麗な一太刀を浴びせた、ぐらいの鮮やかな切り口だ、と私は思いました。目からウロコでした。私だけでしょうか。あまり話題になっていないからさびしいのですが。

『世界で一番美しい樹皮図鑑』

『galley』は、紙で作った普通の、本らしい本だと思うのです。しかし、濱崎さんの装丁は、もっと型にはまっていなくて、奔放で、とても楽しいことを読者の皆さんにお伝えしたい。その証拠が、はい、これ。

 

f:id:leto-kafka:19800101000040j:plain

 『世界で一番美しい樹皮図鑑』(セドリック・ポレ著、國府方吾郎監修、南條郁子訳、創元社)。最近の私の愛読書です。大きさは33㎝×24.5㎝。上の写真は一部光が入っていますが、ここは、本物の山桜の、光沢のある樹皮が貼ってあり、光を反射するのです。秋田県・角館の伝統工芸品「樺細工」で使われている天然の樹皮だそうです。聞けば、現地に赴いて、角館工芸協同組合に協力を仰いだというのだから、すごい。さらに、

 

f:id:leto-kafka:19800101000155j:plain

背がはだか! 帯をなくして本棚に差したら、タイトルが分からなくなるというデンジャラスな設定です(なくしませんけど)。発売された当初は、本屋で平積みになっていて大いに目を引きました。最近本屋で見たところ、植物図鑑のコーナーに横向きに差されており、表紙が見えませんでした。これは平積みがいい!とはいえ本屋泣かせだな。こういう作りであるため、開きがとても良いです。巨木の大迫力の写真を見開きで、ぱっくりときれいに開いて見ることができます。

「樹皮図鑑」だからこそ成り立つ装丁ですね。本全体が樹皮っぽく仕上がっています。

「装丁 超える 本の常識」

f:id:leto-kafka:19800101000054j:plain

時間がたってしまったのですが、先週日曜、6月22日付の朝日新聞の月刊文化プラス「装丁 超える 本の常識」という特集で、濱崎実幸さん(写真付き)、青磁社の永田淳さん、歌集『galley』が登場しました(たぶん、関西方面限定です。岐阜の実家に図書館で見てもらったところ「載ってないよ〜♪」by母 とのことだったので、東の方では使っていないと思われます)。ほかに、装丁家の土屋みづほさん、金沢の書籍発行所「亀鳴屋(かめなくや)」さん、京都の白川書院さんが登場しています。「これが本!?」と目が丸くなる「本」の数々でした。

 

東京国際ブックフェアが近づいてきました。7月2日(水)から東京ビッグサイトにて。http://www.bookfair.jp/HOME/

同時開催の国際電子出版EXPOというのも気になります。

「ゆりかもめ」に乗って、濱崎さんのお祝いがてら見に行きます。

祝☆

歌集『galley』の装幀が、第48回造本装幀コンクール(主催:日本書籍出版協会、日本印刷産業連合会)の文部科学大臣賞に決まりました。発表はこちら↓

http://www.jfpi.or.jp/topics_images/tpc99_113.pdf

装幀の濱崎実幸さんは何度も入賞されていますが、文部科学大臣賞は初めてとのこと。おめでとうございます。私もすごくうれしいです。galleyが本当に海に漕ぎだしてしまった気分です。東京国際ブックフェア(7月2日から5日、東京ビッグサイト)で展示されるということなので、よろしければ足をお運びください。10月にドイツのフランクフルト・ブックフェアでも展示って書いてあるけど、これは本当!? 信じられない。フランクフルト・・・行ったことないよ。遠いよ(泣)。

濱崎さんはアンドレ・ケルテスの写真集『読む時間』(創元社 http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=70060)でも出版文化産業振興財団賞に入賞されました。濱崎さんは渾身のお仕事をいったいいくつされているのか。もう、すごい、負けてられない!の一言です。

さらに、堂園昌彦さんの歌集『やがて秋茄子へと到る』(港の人)の関宙明さんの装幀が、日本印刷産業連合会会長賞に選ばれました。装幀もすばらしかったから、良かった!

何がうれしいって、年1回の書籍の全ジャンルにおける装幀の賞に、歌集が2冊も入っていることが、良かったと思うのです。歌集や詩集が、本の装幀を高いレベルへとけん引した時代がかつてあったわけですが、現在は必ずしもそういう状況ではない。けれど、詩歌というジャンルが、ジャンルの外に向かって美しいものを生み出す可能性を秘めている、とちょっとでも手応えを感じられることがうれしい。短歌よ、もっと広がれ、旅をせよ、と思います。

と、書き終えて数分後、「塔短歌会60周年」ツイッターでお知らせくださっていることに気がつきました。

https://twitter.com/toutankakai60th/status/464396484503298049

ありがとうございます。って、濱崎実幸さんのご受賞ですから、そして、青磁社さんの誠実で熱意あるお仕事の賜物ですから、私はこのへんでちょちょいと下がらせていただきます。ほんと、いい夜でした。

辞書の夜〜舟を編む、辞書になった男、辞書を編む人たち〜(続)

で、話はまだ続くのですが、「辞書になった男」を読んだ後の興奮もさめやらぬ昨夜、「ETV特集 辞書を編む人たち」という番組が放送されました。ああもう私は明日ちゃんと起きなきゃいけないんですよ。と言いつつ見てしまったのですが、これは三省堂の辞書出版部を取材したもの。辞書が大好きな大学院生がインターンとして辞書出版部にやってきます。その奮闘を追いながら、辞書編集者の仕事を掘り下げるというもの。編集部の本棚に「大渡海」(「舟を編む」の中で編集された架空の辞書)が差してあるのが映ったり、「舟を編む」の松田龍平や宮﨑あおいのポスターがちらっと映ったりして、にやにやしてしまいました。荒川良々のナレーションがすごく良かったです。

三省堂の「大辞林」が改訂に向かって動き出しているとのことです。3年後に第4版を出すのが目標ということが番組の最後の方で語られましたが、いや〜胸に突き刺さったのはこの改訂にまつわるエピソードです。改訂に向けて、辞書出版部部長と役員の間で会議が開かれます。「大辞林」の第3版は、Web版のユーザー数が紙の辞書の部数を圧倒的に超えているのだそうですが、そんなインターネットの時代にあって、紙の辞書としての改訂の意義などあるのか、と役員から鋭い指摘があります。こ、これはきつい。なんだか、自分に言われている気がしました。

「紙媒体で仕事をする意義などあるのか(あるのか・・・あるのか・・・あるのか・・・)」←( )内は脳内のこだまふうに

「紙の本で歌集を出す意義などあるのか(あるのか・・・あるのか・・・あるのか・・・」←( )内は脳内のこだまふうに

こんなこと、50代ぐらいのおじさまたちに囲まれて言われたら泣くしかない。涙ながらに「意義は、あります」と言うしかない。しかし、辞書出版部部長はきちんと指摘を持ち帰って、改訂の意義について編集会議で話し合います。きっといろんな意見、考え方があったにちがいないと想像しますが(「会社はもう辞書を出す気がないんだよ」という嘆きも出ていました)、部長が後日の役員との会議で提出した答えは、

「Web版をフルセット、紙をサブとする」

というもの。つまり、Web版をメインとして編集部は注力し、紙の辞書はサブとして愛好家などの需要に応えるというものでした。辞書界としては画期的なことなのだそうで、役員たちも大いに納得。Web版に注力するということが、具体的にどういうことでどんな形になるのかは分かりませんが、第4版を見て確かめたいと思います。楽しみです。

はあ〜紙はサブか。サブならサブで、生きる道があればいいんです。ただ、その「紙として生きること」の意義が問われる時代になったのですねえ。きびしいのう。

辞書の夜〜舟を編む、辞書になった男、辞書を編む人たち〜

先日、映画「舟を編む」が地上波で放送されていました。映画館で見たときは、主人公・馬締(松田龍平)の先輩である西岡という編集者(オダギリジョー)が私はけっこう好きで、泣かされもしたのですが、テレビでは西岡関連のエピソードがほとんどカットされていました。ざんねん。でも、用例採集とか、馬締の達筆過ぎて読めない恋文とか、見どころは一通り再見。無口な人(馬締)がたまに発する言葉の破壊力ったらないですね。たまにしゃべったと思ったら、その言葉は純度100%の、本気の言葉なのだから。

「舟を編む」を見たのと同日、『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(佐々木健一著、文藝春秋)を読了。この本はすごいです。読了後思わず、本書でも引用されている「よのなか」の語釈を、手元の「新明解 国語辞典 第五版」で確かめてしまいました。

 よのなか【世の中】 同時代に属する社会を、複雑な人間模様が織り成すものととらえた語。愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。「物騒なー/ー〔=現世〕がいやになる」

う、うわあ。苦い。辞書としてだいぶ行き過ぎている気もしますが、「そういうものなのだよ」と説明されると「まったくそうだよね」と頷きたくなり、不思議と心に平安がもたらされる(私の感想です)、この哲学的な語釈こそが、「新明解」が人気を得た理由であり、辞書界で批判を受けた理由でもありました。この語釈を書いたのは山田忠雄。「新明解」の編集主幹でした。赤瀬川原平の『新解さんの謎』で「新明解」の語釈が一般にも知られ、ブームになったことは私も記憶しています。90年代でした。「新解さん」の「恋愛」の語釈などは、一時期雑談のちょっとしたネタとしてあちらこちらで聞かれたものです。一方、出版元の三省堂からは、同規模の辞書「三省堂国語辞典」も出され、版を重ねています。これを書いたのが見坊豪紀(ひでとし)。山田と見坊は、実は東大の同期生で、一緒に辞書を作っていたそうです。戦時中に出版された「明解国語辞典」と「明解」の第二版まではともに仕事をしたということなのですが、ある事件がもとで二人は袂を分かち、それぞれ理想の辞書を求めて突き進んでいく、という。戦後辞書史の謎に迫るノンフィクションです。

そもそも、言葉に向き合う人というのは、こわいぐらいに熱い、と私は実感しています。刀を持たせたら、考えの異なる相手を斬りかねない、ぐらい。言葉を語るやつに刀と一升瓶は持たせるな、というのが、短歌や新聞や校閲という業界に足をつっこんでいて私が覚えた知恵であります(まあ、なかなかそんな場面ないですけど)。私自身、言葉の使い方のせいで人間関係で失敗したことがありますので、「言葉はわたくしのものではない」ということを常に肝に銘じ、人の言葉についての考え方や感覚、使い方に対して寛容になるようにしています(短歌の作品では「わたくし」の言葉の使い方がけっこうあらわになる、いや、あらわにすべしと思っていますが)。

ですから、山田先生と見坊先生が別々の道を行くことになるのは必然、ということは腑に落ちました。それほどに、二人の言葉についての考え方、辞書についての理想が違っていたことを、本書は「新明解」「三省堂国語辞典」の語釈や、彼らを知る人への取材、彼らの残した数少ない語りから解き明かしていきます。彼らの理想の違いから個性の際立つ辞書が二つも生まれたわけで、辞書の利用者としては非常に豊かなものをありがとう、という気持ちにもなりますが、辞書作りの渦中にあっての相克と孤独は、いかに穏やかな人柄と見えた山田先生、見坊先生であっても心中すさまじいものだったであろうこと、想像がつきます。

著者・佐々木氏が本書の早い段階で、言葉の世界を、よく使われる「海」ではなく、「大砂漠」に喩えています。読み進めるにしたがって、「大砂漠」の喩えがじわじわと効いてきました。

印刷博物館

印刷博物館http://www.printing-museum.org/に行きました。興奮しました。ブックデザイン展は終わっていたのでまた来年。

興奮1 壮大。人類が洞窟に壁画を描いた太古から印刷を語り起こす。

興奮2 徳川家康が作った銅活字「駿河版活字」。ほんもの。

興奮3 3Dプリンティングは、やはりすごいらしい。失われた活字の複製も可能。

興奮4 VRシアター。カーブした巨大なスクリーンのあるシアターで、バーチャルリアリティーを体感するプログラム。ポンペイの邸宅の一つ「黄金の腕輪の家」の当時の風景を再現した映像を、係の方の生のナレーションを聞きながら見ます。臨場感、浮遊感がとてつもなかった。現地をガイドされながら歩く感覚でした。それにしても、「印刷」技術の拡大の先にはVRもあるのですね。

興奮5 偉人・本木昌造。一生、良質な活字を作ることを考えた人。幕末から明治期に生きた人ですが、長崎に生まれて、通詞をやりながら活字に興味を持って、長崎製鉄所の仕事をしながらその隣に活版伝習所を作るという、この流れ。なんだろうこの生き方。熱い上に、肉がみっちり詰まっている。

興奮6 植字ゲーム。3回やりましたが、4点の壁を越えられず。4点以下だと「まだまだ初心者ですね」とゲーム機に鼻で笑われるのです。

興奮7 「ギャレー(ゲラ)」との遭遇。16世紀後半のヨーロッパ最大の印刷業者クリストフ・プランタンの工房での、活版印刷の工程を再現した映像がありました。なんとなく再生したのですが、「植字工はステッキ(注・活字を並べる細長いケース)に活字を拾っていきます」というようなナレーションの後、

 ギャレー(ゲラ)

というテロップとともに、四角い木のお盆のような箱が! ゲラです。これがガレーです。活字を拾ったステッキを「ゲラ」に並べ、ずれないように「ゲラ」の四方を紐でぐるぐる巻きにするのです。それを印刷に回します。私はついにガレーを目にした喜びのあまり、この映像は3回見ました(一人で3回見てもまったく問題がないほど館内が空いていたことをお察しあれ)。再現映像とはいえ、「ゲラ」の使い方を見ることができて幸せです。

興奮8 印刷の家。ガラス張りの部屋に、黒光りする美しい印刷機が何台も。活版印刷のワークショップもあるとのことです。

興奮9 「本は粗製乱造に向かう」。どこのコーナーか忘れましたが、近代ヨーロッパで印刷技術が発達した結果、本は粗製乱造に向かった、と。装丁の質が劣化していくことを危ぶんだ人々は、装丁コンクールを行うなどして、その質の向上に努めた、と。そんな話が心に残りました。「本」が安さを目指す、のは近代以来当然の流れなのだ、と、なんとなく知っていたことをはっきりと教えてもらいました。安価だからこそ、多くの人が、そこに書いてあることを手に入れられるわけで。美しい装丁を、という考えは、突き詰めれば時代錯誤な貴族趣味に至ってしまうのでしょうか。いや、そういうのとはちょっと違う、と思いまして。結局、「危ぶんだ人々は、装丁コンクールを行うなどして、その質の向上に努めた」という、何か瀬戸際のあがきのようなことが、美しい物を、良い物を作り、残していくはずだ、と私は思っています。ひどくささやかな運動に思えますが、素直に共感できるのはそういうところ。抗いがたい波に向かって抵抗の犬かきをする、みたいな。短歌もちょっとそういうところがある。とたった今、思いました。犬かき短歌。

以上、印刷博物館の勧めでした。

装幀 覚え書き(続々)

装幀家について、このようなサイトもあるのですね。

日本図書設計家協会 http://www.tosho-sekkei.gr.jp/index.html

「装丁家作品ページ」で会員である装丁家さんたちの代表作が見られます。が、何より「ビータス」というウェブマガジンをしばし読みふけってしまいました。な、なんだこの世界。読むところがいっぱいありますが、まずは「装丁装画の気になるあの人」などをどうぞ。自由な感じがいいですねえ。濱崎さんもこのコーナーに出てほしいと思いました。やはり青磁社の歌集を手がけていらっしゃる上野かおるさんを発見しました。ジャンプしていらっしゃいました。