galleria!

川を見てゐた手だらうかうつすらと電車の窓にしろき跡あり

装幀 覚え書き(続)

そうそう、肝心なことを書き忘れていました。今回の歌集作りを、なぜ青磁社にお願いしたのか。また、なぜ装幀を濱崎実幸さんにお願いしたのか。

青磁社を選んだ理由は2つあります。まず、自分の住んでいるところの近くで本作りをしてみたい、と思ったことが第一にあります。実のところ、本作りははじめから終わりまで、メールや郵送などですべて済ませることができます。編集者と直接会わなくともできます。遠方の出版社から出すことももちろん可能ですし、それが当たり前に行われていますよね。ただ、私は、もうちょっと距離の近い、手応えを感じながら進められる本作りをしてみたかった、というのが動機です。実際、自転車で青磁社に行ったり、青磁社の近くの喫茶店で謹呈札を書いたりしていました。

(青磁社に向かう途中の河川敷の紅葉が赤すぎて、赤い檻の中を走っているみたいだった、とか、喫茶店で2時間も居座っている間に何度もコーヒーを入れに来てくれた店員さんの名前が「マリア」さんだった、しかも、その後その喫茶店に行くたびに私のテーブルには必ずマリアさんが来る、など、どうってことないんだけどなんとなくいい思い出が、本作りに加わりました。あ、でも思い出は、近くても遠くてもできますね)

合理的なお話ではないので参考にはならないと思いますが、今回は自分が暮らしている町で歌集を作ることが、非常に大事なことに思われたのでした。

編集者に会わなくとも本作りはできると書きましたが、近くの出版社であれ遠くの出版社であれ、編集者には直接会った方が良いに決まっている、というのが本音です。はじめの打ち合わせの時に1度だけでもいいので、会って、じっくりと話すことができれば、お互いのテンポのようなものもつかめるし、その後のメールや電話、郵送でのやりとりもやりやすくなるでしょう。今回の私の場合は、「塔」でもよく知っている永田淳さんが編集者だったので、コミュニケーションに心配はありませんでした。その点から言えば、歌集作りに向けて、あらかじめ短歌のイベントや出版関連のイベントなどでさまざまな出版社の編集者の話を聞いたり、実際に話してみたりして、編集者を知っておくのもいいかもしれません。

青磁社を選んだ理由の2つ目は、濱崎さんに装幀をお願いしたかった、ということがあります。濱崎さんはさまざまなジャンルの本の装幀を手がけていらっしゃいますが、私は青磁社の歌集を通して知りました。濱崎さんにお願いするなら、つながりのある青磁社を通すのがいいだろう、というわけで青磁社にお願いしました。

最後に、濱崎さんにお願いした理由です。濱崎さん装幀の歌集をたびたび見てきて、枠にはまっていない感じがとても好きでした。平たく言うと、「ぶっ飛んでるな〜」と毎回思っていました(失礼ですね。すみません)。ぶっ飛んでいるのですけど、どこか心が微笑ませられる。それがなぜなのかは分析できないのですが(分析したくないですし)。まあ、こればかりは好みというか直感というか、「見たことのないものが見られるかも」という予感を勝手に抱いていましたし、そういうものによって私も動いているので、うまくは言えません。

「装幀放談」の前に濱崎さんのさまざまな装幀を振り返ってみて、触覚にうったえる装幀であることに気がつきました。「放談」の中で濱崎さんが何度か言われた「紙が好き」というシンプルな言葉は、すべてを包む回答として、心に深く残りました。

装幀 覚え書き

「装幀放談」をテキストにしながら考えたことを記しておきます。

歌集作りを考えている方で、装幀に興味のある方のご参考になれば幸いです。

基本的に、装幀家と著者が連絡をとることはめったにないので、完成までは編集者とやりとりをします。編集者は、著者・装幀家・印刷会社など、関係各所をつなぎ束ねる、いわば歌集作りのディレクターです。要望は何でも編集者に、具体的に、遠慮せずにはっきりと伝えましょう。

・本の大きさ、形(判型) ・1ページあたり何首組か ・予算 ・部数 ・希望の装幀家(あれば。もちろん、人選は編集者にまかせてもいい) ・好みの書体 ・紙の色や質感 ・使ってほしい図柄、色など、デザインの要望があればそれも

以上の項目について歌集作りのはじめに具体的に答えられれば、前途は明るいでしょう。その中で、皆さんが気になるであろうデザインの要望について。私は、どちらかというと、装幀家の自由度を大きくしておきたい、という考えでした。というとなんだか偉そうですが、要は、ほぼまっさらな状態で作品を見ていただき、そこから生まれる、自分では思いもつかない歌集像に出会いたかったのです。本当にわくわくしていました。ですから、要望は最小限にとどめ、避けてほしいことを1、2点挙げるだけにしました(一つは、こういう紙は嫌だ、ということ。あとは・・・言った気もするのですが忘れました)。

デザインについて、どうしてもこうしてほしいというイメージが強くある著者は、編集者に、希望をありのままに伝えた方がいいです。が、編集者にせよ装幀家にせよ、プロの意見は、必ずや、本をより良くします。一見希望とずれているように思える意見が返ってきても、聞く耳は大きく広げておくことをおすすめします。何人ものプロが歌集作りに関わってくれている状況を、めいっぱい楽しむべし。

最後に、『galley』を作るにあたって支えになったプロの言葉を二つ。

「第二歌集は粛々と出すしかないんですよ」 by青磁社・永田淳さん

「galleyはあなたにしか使えない言葉ですね」 by装幀家・濱崎実幸さん

うーむ。これらの言葉がなければ、galleyは漂流船と化していたことでしょう。

『夏鴉』追加

三月書房に第一歌集『夏鴉』を追加納入してきました。『galley』から興味を持ってくださったのか、買ってくださる方が続いているようでうれしいです。ありがとうございます。ネット上の某所で『夏鴉』の中古品にすごい値段がついていますが、ほんとに余計なお世話なこと言いますが、たぶん高すぎて売れないです。定価のほぼ倍って・・・手に入りにくい歌集ではありますが、いくらなんでも相場ってものがあります。

三月書房では、新品が定価+税です。装幀は倉本修さん、美しいクロス装です。

久々に、ジュンク堂の京都朝日会館店に立ち寄りました。『galley』が、1冊はそのまま置いてあり、手にとれるようになっているのですが、ほかはビニールで包まれ、汚れないように保護されていました。『エフライムの岸』もビニールで保護されていました。濱崎さんの装幀が美しい状態で読者の手にわたるようになっているわけです。書店員さんのご配慮に感謝します。

装幀放談(6)最終回

(場所をバーに移して、話題もなんやかんやと移りました。濱崎さんの終電の時刻が近づき……)

澤村:濱崎さん、覚えていますか。私は忘れもしないんですけど、あの歌集のタイトルは濱崎さんのひとことで決めたんですよ。

濱崎:え? なんのこと?

澤村:いったんは「galley」で決めていたんですけど、打ち合わせの時にはまだ少し迷っていて。

永田:ああ、ありましたね。「葦に雨降る」とか。

西之原:短歌的な、抒情的な感じのタイトルもいくつか候補にあったよね。

澤村:ええ。それで、迷っているという話をしたら濱崎さんが、「どちらも魅力的だけど、galleyはあなたにしか使えない言葉ですね」とおっしゃったんですよ。

濱崎:そんなこと言ったかいな。全然覚えてない。

澤村:おっしゃったんですよ。その一言で決めました。これしかないと。その時、濱崎さんもう「ガレー船と言えばベン・ハーですね~」とか言いながらゲラの隅っこに何やらスケッチを始めているし。

濱崎:はははは。よいしょっと。行くか……。

永田:だいじょうぶですか。

濱崎:だいじょうぶだいじょうぶ。それじゃ……。

永田:ありがとうございました。

澤村:お気をつけて。ありがとうございました。

西之原:(微笑み)

 

(了)

装幀放談(5)

ながらくの休憩、失礼しました。放談再開です。一気に最終回へ。

 

(4人のテーブルはいい具合にほろ酔いになり……) 

 

澤村:歌集の電子書籍化については、これからどうなっていくのか、興味深いところです。著者にとって、出版する形態の選択肢が増えるのは良いことだと思う。読者の手に届きやすくなるということが何より大切だと思う。ただ気になるのは、近年誰でも、早く、安く、歌集が出せるということを歓迎し過ぎたところはなかったか、と。本の価格のデフレじゃなくて、「本づくり(・・・)のデフレ」の流れに乗ったことについては、どうだったのかな、疑問に思うところがあります。時間をかけて、お金をて、作りたいものを作る粘りとか、力とか、そういうのは、世の中がデフレだろうがグローバル化だろうが、絶対失ってはいけないんじゃないか、と。濱崎さんの装幀も、何かを作ろうとするから、今までにない技術を、その本づくりのために編み出してきたわけでしょう。そこには、印刷会社や製本会社の技術努力も関わっていて、作り手の「やろう」という気と、「ここは譲れない」という頑固さがないと始まらない。いいものは、そこからない。 

永田:デフレねえ。

濱崎:電子書籍化は進むよ。それに短歌は、デジタル化に最も向いている文芸ジャンルな気もする。まだその特性を生かしきれていないだけで。それでも俺は紙が好きだけど。

澤村:そうですか。私も紙の歌集が好きです。うーん。あとは流通ですかね。手をかけて、お金をかけて、いいものを作って、でもそれが読者の手に届かなかったら意味がない。

 

(補足:後日、西野嘉章『装釘考』(平凡社ライブラリー)という本を読みました。日本近代の出版物の「装釘」を具体的な例を挙げながら考察したものです。当時の装丁の例として、歌集が数多く挙げられています。『かたわれ月』、『つゆ艸』『みだれ髪』『恋衣』、私の好きな服部躬治の『迦具土』など。装丁を一つのアートとみなす本づくりの源流が近代にあり、しかも歌集づくりが新鮮な装丁を生みだしてきたことがよく分かる書物です。本の「ジャケ買い」をよくしますが、ジャケ買いの精神も近代に発していたことが分かります。「装丁大好き」「手間ひまかけたい」と言っている時点で、つくづく自分は近代的な人間であると思いました) 

 

(装幀放談(6)最終回へつづく)

装幀放談 (4)

少し間が空いてしまいました。「装幀放談」の続きです。

 

(お酒もだいぶすすみ、この辺りから話題があちらこちらにとびます)

永田:注目していらっしゃる装幀家は、どなたかありますか?

濱崎:あまり付き合いがないからそんなに思いつかないけど。あ、永田さんのあの歌集の装幀。

西之原:『湖をさがす』ですか。ふらんす堂さんですね。

濱崎:あれは、くやしいと思った。やられたと思った。俺がやりたかった。

澤村:岡井隆さんや東直子さんのもあるけど「短歌日記」シリーズですね。あのサイズにまず驚きました。それに、1ページに大きな字で1首って、ぜいたくな感じがするし、歌の見え方も変わってきます。

西之原:僕は、1首が3行書きで行の高さがすべてそろっている、あの組み方が良かったなあ。字数に関わらず行の上下の幅をそろえるのって、俳句では見るけど短歌ではあまり見ないです。

澤村:カバーも本体も全体が真っ黒で、カバーには銀色の箔かな、箔で描かれた不思議な魚が踊り上がっていて。外から見ると全体は黒いけど、花切れと栞が水色で、秘めた湖っぽい存在感がいいですね。

永田:装幀は和兎さんですね。

濱崎:うーん、くやしいなあ。でも青磁社もね。いつだったか、同業者と話していて、いま面白い出版社はどこかという話になって「青磁社は自由にさせてくれるよ」と言った。いま一番自由にいろいろ冒険できるという意味で。ただ永田さん、プレッシャーをかけるのもうまくてね。無言で。

永田:そんなつもり全然ないですよ。

濱崎:いやいや。プレッシャーを察知してね、これはやらなあかんと思ってがんばるわけ。

永田:濱崎さんの装幀は本当に、手に取ってその良さが分かる。『galley』がスキャンでは撮りづらいという話もしたけど、デジタル向きではないというか。

澤村:インターネット上とか、あるいは電子書籍になったときに映える装幀もあるんでしょうね。紙の本ならではの面白いことがたくさんあるのに、電子媒体では伝えにくいのはなんかくやしいなあ。

濱崎:それを言い出したらね。電子か紙かで言ったら、紙はもう何を言っても負け犬の遠吠えなんで。

澤村:遠吠えじゃない語り方ってできないんでしょうか。ちょっと、電子と紙の話になりますが、電子書籍と紙の本について、内田樹さんが書いていることに大きく頷いたことがあって。例えばミステリーを読むでしょ。で、読んでいくと手にしている本の左右の重量差とか厚さで残りがどれぐらいか分かる。読者はそれで、これぐらいの残りならもう一波瀾あるなと思って注意深く読み進めることがある、と。そうやって1ページめくるごとに、読み方が微調整されたり、解釈が変わってきたりするのが紙の本なんだ、と。

(補足:私は、内田樹『街場の文体論』(ミシマ社)の「第3講 電子書籍と少女マンガリテラシー」を思い出しながら話していました。非常に面白い本です。紙の本を読むという体験と、電子書籍を読むという体験の違いを分かりやすく考察されています。要は、紙の本と電子書籍では、「読む」という体験がそもそも別物である、という話です)

濱崎:感触みたいなことでいったら、電子書籍でもすでに「紙をめくる感触」ぐらいは相当高いレベルで実現できるんじゃないかと思うよ。

澤村:まあ、それは紙の本を読む感触の再現ということですよね。そうではなく、電子書籍特有の身体感覚がこれから生まれてくると思うし、そこからどんな作品や人間ができてくるんだろうと興味をもって見てはいますが、まだそこまではいっていない。ただ、広がっていくとは思う。その間に何もしないでいると、紙の本の体験とか、紙媒体の美点は忘れられてしまうのではないか、と。私はそれは困るんですよねえ。読者として作り手として。

永田:実際どうです? 電子書籍は売れているんですか。

西之原:うーん。うちもやってはいるんですけどね。好評の本でも、採算の都合で重版できず品切れになったままのものもあるので、そういう本を電子化したりはしています。でも、月締めの売れゆき=ダウンロード数はまだまだ微々たるものです。業界大手であっても、紙の本よりも売れ行きが厳しいようなことはよく聞きますし、電子端末のフォーマットの問題などもありなかなか浸透していかないようですね。

濱崎:まあでも、全体的に電子化していく流れでしょうね。それでも俺は紙が好きやから。どうしても紙の方にいくんやけど。

澤村:青磁社も、今年の年賀状に「紙でいく」ということを書かれていましたね。

(補足:青磁社の2014年年賀状から引用します。「歌集の電子書籍化が徐々に広がりを見せ始めておりますが、青磁社はあくまで紙にこだわった本造りを目指していきたいと考えています。手触り、重さ、ページを開く時の紙擦れの音、インクを吸った紙の匂いそういった暖かみこそ短詩型にふさわしいと考えるからです」)

濱崎:電子書籍には、まだ官能性がない。セクシーさというか。それはまだ全然感じられないな。

永田・西之原・澤村:官能性……。

濱崎:そこは俺は、やっぱり紙やな。紙が好きやな。

澤村:ウンベルト・エーコと誰だったかが、紙の本について話してる本があるでしょう。

濱崎:ああ、あの青い本ね。

(補足:『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(阪急コミュニケーションズ)という本で、ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが話しています。工藤妙子訳)

澤村:本当に本が好きな人たちの対談だけれど、あの雰囲気にはちょっと反対する気持ちもあって。その、本が高級な工芸品で、それを大事にしまっておいて愛でる、みたいな本の愛し方になってしまうのもなんかちがう、とも思うんです。もちろん、そういう愛書家が紙の本を支える面はあるんですけど。紙の本は、もっと人の手に取られて、開くとか付箋を貼るとか、持ち歩くとか、使われてこそ、というところもあるでしょう。

濱崎:それはね、あの人たちは本の文化からしてわれわれとは違うわけです。あの人たちは羊皮紙から始まっているわけでしょう。だから、あのような工芸品的な愛し方も根付いているわけ。

永田:昔は釘で綴じていたから、「装釘」という表記もあったんですよ。

澤村:装幀家としては、自分が作った本が汚れるということに関してはどうですか。

濱崎:それは歓迎ですね。汚れていい。触っていい。

( 装幀放談(5)へつづく )

装幀放談(3)

澤村:字といえば、河野さんの『蟬声』の、タイトルの字の配置も好きです。黒くシンプルで。『母系』のタイトル部分と同じように、字はやはり、少しもり上がっていて、光沢があります。シンプルだけど、寂しい感じはしない。

濱崎:これはね。納得いってないな。

永田:え? そうなんですか?

濱崎:『母系』を意識し過ぎて、ケレンが出てしまった。永田(和宏)さんの『夏・二〇一〇』もだけど、やっぱり『母系』を思うと、へんな力が入ってしまったのかな。

澤村:字は黒だけど、さりげなく、アスタリスクで明るい赤が入っていて、この色は『母系』とのつながりを感じさせて良かったけどなあ。

濱崎:だから、作品それ自体、その本自体というより、人に拠ってしまった。作者その人についてのイメージの流れの中で作っているというか。やはり、そういう仕事をしてはいけないですね。

永田:そんなことないですよ。これはこれで良かったけどなあ。そうそう、これもカバーを外すと……本体はざらざらしてるでしょう。これね、裏なんです。

濱崎:製本所で手違いがあって、紙の表裏を間違えたという。この手触りは紙の裏なんです。

永田:これを見たお客さんが「この紙がいいです」と言って指定してきたりね。何が起こるか分かりませんよ。それはそれでね、面白いですよ。

西之原・澤村:へ~!

(補足:このほかにも、濱崎さんのお話の中にはたびたび「ケレン」という言葉が出てきたことを興味深く思いました。「広辞苑」で見ると「けれん=外連…①演劇演出用語。見た目本位の、俗受けをねらった演出・演技。②はったり。ごまかし」とあります。歌舞伎の舞台批評などでは「ケレン味たっぷりに」などと、良い意味で使うことがありますね。濱崎さんの「ケレン」はどちらかというと、①の「俗受けをねらった演出」に近いニュアンスかと、私は解釈しています。ケレンを戒めるのは、受け狙いや、意図が見えすぎるデザインを慎む、という態度なのではないかと思います。となると、読者がデザインの表すところをあからさまに察知するのではなく、「深読み」をするというのは、濱崎さんの装幀が非常にいい具合である、ということの証しなのではないか。…と、これは理屈っぽい余談でした。)

( 装幀放談 (4) へつづく )

 

【歌集『galley』の気になる歌】

青磁社のフェイスブックで【歌集『galley』の気になる歌】が始まっていました(後追いですみません。さきほど気がついて、ばっちりと目が覚めたところです)。

https://ja-jp.facebook.com/pages/%E9%9D%92%E7%A3%81%E7%A4%BE/258604550842687

田中槐さんと永田淳さんが『galley』から「気になる歌」を読んでくださっています。どなたでも参加可能とのことです。「気になる歌」がありましたらぜひ、コメントにいらしてください。晩ご飯の後に。酔っぱらいながら。白湯をのみながら。など、スタイルは自由!なようです。

作者はあまりしゃべらない方がいいのかもしれませんが……一首一首、率直に踏み込んでいただいています。文体の癖に気づかされました。そして、真中さんの投稿された「海石」の写真にぶっと噴き出し…そうそう「海石」ってこんな感じです。

装幀放談(2)

澤村:濱崎さんの装幀で私が一番感銘を受けたのは、河野裕子さんの歌集『母系』です。(実物を取り出す)

永田:お! どっちだ? 初版か2刷か?

澤村:え?

永田:初版と2刷で違うんですよ。(帯をめくって)ああ、これは初版だ。

濱崎:うん、やっぱり初版は光り方が違うね。

澤村:ええと、(奥付を確認して)初版です。

西之原:帯の上辺のところがうっすらと、ほんのりと赤くなっている……。

濱崎:そうそう。このほのかに、赤が光って映る感じが、初版の方がやはりきれいに出ていますね。

永田:初版は、帯の紙を貼り合わせているんですよ。表の紙と、裏の蛍光色の紙と。

濱崎:合紙というのですが、これはコストがかかりましてね。青磁社からも悲鳴が上がって、2刷からは印刷になりました。最初はほんまに、電池で光らそうかというアイデアもあった。

永田:ありましたねえ。

濱崎:本気で、本に電池を付けようかと思ったけど、かさばるから。

澤村:帯の紙をこんなにきれいに貼り合わせるなんて、むずかしい技術なのでは。

永田:いや、それは専門の加工会社があって、技術がちゃんとあります。

澤村:ほんのりと赤くしたい、というイメージがあって、それを作るためにあれこれと技術を工夫するのですか。

濱崎:そうです。河野さんはね、幼女のイメージだったんですよ。装幀する前には著者にはなるべく会わないようにしているのですが、河野さんには会ってしまいました。会わないようにしているのは、テキストそのものよりも著者の人となりをデザインに写してしまうことがあるからです。うっかり楽しかったり好意を持ったりすると、著者に気に入ってもらいたいと不純な気持ちになるから。それで、河野さんにお目にかかったときもはじめは渋々だったんです。そのときに装幀の信条のようなものを問われて、苦し紛れに「降りてくるのを待つ」ようなことを放言してしまい、「あとがき」には、濱崎の創作スタイルとして書かれてしまうわ、あちらこちらの新聞のインタヴューで「降りてくるのを待つ人」のようなことを話されてしまうわで随分と赤面させられました。河野さんはこう、内側からあかく光る感じでした。かわいらしさもあって。

西之原:『母系』の赤はどこか澄んだ赤ですね。

澤村:『体力』の装幀も赤いけれど、あれは暗めの深い赤だったでしょう。

永田:レオナルド・ダ・ヴィンチの絵を使っていてね。

 (補足:『体力』は1998年、本阿弥書店刊。装幀は海保透さんです)

澤村:『母系』の澄んだ赤は、当時の河野さんの歌の調べのイメージとなんか通じるなあ。

濱崎:やっぱり、『母系』は転機となった仕事で。

永田:装幀の賞も受賞されましたね。

濱崎:ええ。それよりも自分の仕事のしかたとしてね。こういう仕事をするには、ここまで自分を追い詰めなあかんのかと知りました。そもそも、永田淳さんの注文がただ一つ「渾身の仕事を」と。「渾身の仕事」てのは、やろうと思ってできるわけもなし……。結局、何をしたかというと、常なら2、3割の予測しきれないところ、例えばインキの発色だったり、製本の微妙な塩梅などは、印刷所・加工所に結果オーライで任せてしまっているのですが、その割合を小さくすること、計画と結果の誤差を限りなく追い詰めることでした。こんなことを毎度の仕事でやっていたら怒られてしまうし、何事も「良い加減」というものがあると思うのですが、『母系』の装幀にあたっては、できることといえばそれくらいしか思い浮かびませんでした。それで、歌集ができてから打ち上げの場で、河野さんから掛けていただいた第一声が、「濱崎さん、降りてきましたね」。いままでの中で最高の賛辞です。

永田:カバーを外してみて。この背の赤いところ。クロスの上に、背の部分だけに貼っているんです。

西之原・澤村:あーほんとだ。

永田:この貼る部分が、もっと幅があって、表紙の3分の1ぐらいまで貼ってある装幀はよく見るでしょう。でも、これを背の部分だけに貼るとなると難しい。

濱崎:(製本所に)できません、て言われた。できるはず、と言い返したけど。実際、できた。粘って言ってみるもんです。

澤村:そのつど、その本の装幀のために生まれる技術があるということですね。

永田:こんなにいろいろとするようになったのはいつからでしたっけね。

濱崎:吉川宏志さんの『風景と実感』あたり。あれでセロテープを貼った時から。

永田:セロテープね! あれ、書店さんに「テープくっついてますけど」って言われたことあったなあ。

澤村:『母系』で私が一番好きなのは、タイトルのこの書体なんです。細くてしなやかな、血のような。ほかにはない書体で、こういうのも濱崎さんが考えるのでしょう。

濱崎:そうですね。

永田:この字は、印刷したその上に、シルク印刷といってインクを乗せて盛り上げているんです。「河野裕子歌集」というところは1回だけの印刷です。これと同じようにタイトルの「母系」の書体も印刷されているのですが、発色を良くするために、同じ色を2回印刷している。その上にさらにインクをのせて、ニスで仕上げています。だから字が少し盛り上がっていて、光沢もある。

西之原:印刷した上に乗せるって、これ、ずれることなくできてるってことですか? こんな細い線まで? ぱっと見たところ分からないけど、すごいことしてるなあ。

 

(補足:後日、『母系』製作の際に印刷会社や製本会社に渡したという「注意書き」を濱崎さんから見せていただく機会がありました。「注意書き」では、驚くほど細やかな指示がなされています。例えば、「母系」の「母」の字は、非常に繊細な線から成り立っていますが、その線へのニスの重ね方については、bestbadbetterの3例が図示されています。また、帯の巻き方についても、帯裏の赤の照りかえしをうまく映すために「少しふんわりと巻く」など。こうした微妙なところが、上の話でいう「常なら印刷所・加工所に結果オーライで任せる微妙な塩梅」なのでしょう。普段は任せるところを注意書きとして念を押すわけですから、印刷、製本の専門家にはむっとされてしまうこともあったかもしれません。装幀家のふんばりどころであったと推察します。注文に応えた印刷のプロ、製本のプロもさすがです。)

 ( 装幀放談(3)へつづく )

装幀放談(1)

さて、このブログを開設するに至った本題に入りたいと思います。

濱崎実幸さんの装幀による『galley』を手にしたとき、著者としてというより、本に興味のある者として心が躍りました。まず、読者からも感想のあった「紙の感触」。「なんだこれは」という驚きが、本から手へ、手から体へと伝わり、愉悦となる感覚は、なんとも言いがたいものでした。今回の装幀について、私はほぼリクエストをしていません。「トレース(という紙)は好きではない」「四六判で、書体はリュウミンで」とは言いましたが、完成品は四六判変型で、書体は秀英になりました。結局、ほぼおまかせだったわけです。本を手にして、「濱崎さんに話を聞きたい」と即座に思いました。装幀はどのようにして作られるのか。装幀家はどんな考え方をするのか。また、電子書籍での歌集も登場したいま、紙の本として歌集を作るとはどういうことなのか。そんなことも考えてみたいと思いました。

というわけで、大いに聞き、語ってまいりました。話題は、さまざまな歌集の装幀から、濱崎さんの仕事のスタイル、もうすぐ消えてゆくのかもしれない「紙の本」について、と広がり……  そのごく一部を連載します。題して「装幀放談」と申します。 

 

<2014年1月某日、京都市内の居酒屋にて。話し手は、装幀家の濱崎実幸さん、青磁社社主で編集者の永田淳さん、学術出版社の編集者の西之原一貴さん、『galley』著者の澤村斉美。永田さん、西之原さんも歌人である。まずはビールで>

 

一同:あけましておめでとうございます(乾杯)。

澤村:濱崎さん、「ベン・ハー」見ましたよ。いやあ、すごかったです。

濱崎:ああ、ガレー船といえば「ベン・ハー」ですからね。あの映画はガレー船のとこと競馬のところが。あの時代によく撮ったなあという。

永田:どんなんやったっけなあ。覚えてないな。

濱崎:あのカラーの有名なやつの前にモノクロのもあるけど、断然カラーの方が人々の記憶に残ってる。 

 (補足:昨年7月、初対面の打ち合わせの際、galleyとはガレー船のことも指すと聞いた濱崎さんは「ガレー船といえば『ベン・ハー』ですね」とひとこと。その時点でこの映画を見ていなかった私は、どんなイメージだろうといぶかしく思いました。後日鑑賞し、ガレー船の船底にびっしりと並ぶ漕ぎ手の、迫力ある描写に納得)

澤村:『galley』の装幀に、皆さん本当に驚かれるようで、まず表紙の手触りに驚いたという声が多いです。カバーを外すと、中の本体も鈍いさわり心地で。

濱崎:それはカバーと同じ紙を使っています。その紙の感触については、何かひっかかりを作りたくてね。

西之原:僕は、本文紙を変えるというのにびっくりしました。少なくとも歌集では見たことがないです。

濱崎:ほかの本でもないかな。それも、ひっかかりやね。読んでいって、こう中身とは関係なくひっかかりを作りたいという。結局、紙を選ぶのに一番時間がかかります。

永田:小口を染めるという案もありましたね。

濱崎:そう。でも小口を染めるのはコストがかかってね。折ごとに紙を変えるのはそんなにかからない。

永田:あと、背がまるくなってるでしょう。だから小口がカーブして、へこんでいる。これをこう、ストンと、まっすぐに角背にすると小口がまっすぐになってきれいになる。ただ、これは表紙の芯のチップボールに薄いのを使っているので、耳(綴じてある角の部分)がうまく整形できないという技術的な問題があった。

濱崎:やりくりをするのがね、けっこう好きなんです。このコストの範囲でという制限の中でいろいろ方法を考えるのが。

澤村:小口を染めるといえば、7月の打ち合わせのとき、ちょうど真中朋久さんの『エフライムの岸』ができてきて、あれは小口と天と地が青く染められていますね。三方染めるのは珍しいのでは。

永田:天金なんかはありますけどね。

濱崎:そうですね。

澤村:『エフライムの岸』、読み終わると指が青くなるんです。

永田:え~!

澤村:「読んだ」という感触が色とともに指に残るのが、真中さんの歌らしくていいと思うんです。真中さんの歌って、身体に響くでしょう。

永田:まあね。

濱崎:そんなん、深読みですよ。けっこうね、装幀については読者が深読みをしてくれる。歌集の読者は特に。でも装幀を考えるときは中身と合わそうとかあまり考えてないです。

澤村:『エフライムの岸』の扉の、半透明の紙も、川岸のイメージで靄がかかっているんだ、とおっしゃっていませんでした? 素敵やなあと思ったんですけど。

濱崎:後から説明を求められると、なんとか言葉にせなあかんからそういうふうに言うけど、作るときは全然言葉になってないんですよ。もっと、もや~っというか。こんなふう、こんな感じ、みたいに。子どもみたいに感じてる。

西之原:『galley』の発想はどこから来たんですか?

濱崎:完全にタイトルに引っ張られましたね。galleyがゲラで、活字のイメージから。

永田:表紙のね、この活字のイメージっぽいクリア箔が、ほんとにスキャンしづらい。だからアマゾンの画像もうまくいってないんだけど。実際に手に取らないとこのきれいさが伝わらないという。

澤村:扉の質感も、実際に見ると面白いですね。透かして見るのも良いけど、次のページの紙をあてた状態で見ると、石っぽくも見えるんですよね。

西之原:それこそ、石に刻まれたヒエログリフみたいな。

濱崎:ほら、深読み。いやあ、ほんま幸い、俺は昔から深読みをしてくれる人たちに囲まれて仕事している。

永田:この技法がまた難しくて、なかなかうまくいかないんだよ。パチカっていう紙で、熱を加えると変色するんだけど、こんなふうに字の形がきれいに出ないこともある。それに、表紙と違って、歯抜けになっているでしょう。

濱崎:あまり熱を加えると紙がよれてくるから。加熱する面積を減らすにはどうしたらよいかと。それで、白い部分も残してる。そういうね、物理的な限界もあって、必ずしも全部が意図したデザインというわけではない。

澤村:なるほど。ここでまた深読みが好きな人は、歯抜けになっているところに何かを読み取るかもしれない。

濱崎:実は何もないんやけどね。

( 装幀放談(2)へつづく )