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川を見てゐた手だらうかうつすらと電車の窓にしろき跡あり

辞書の夜〜舟を編む、辞書になった男、辞書を編む人たち〜

先日、映画「舟を編む」が地上波で放送されていました。映画館で見たときは、主人公・馬締(松田龍平)の先輩である西岡という編集者(オダギリジョー)が私はけっこう好きで、泣かされもしたのですが、テレビでは西岡関連のエピソードがほとんどカットされていました。ざんねん。でも、用例採集とか、馬締の達筆過ぎて読めない恋文とか、見どころは一通り再見。無口な人(馬締)がたまに発する言葉の破壊力ったらないですね。たまにしゃべったと思ったら、その言葉は純度100%の、本気の言葉なのだから。

「舟を編む」を見たのと同日、『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(佐々木健一著、文藝春秋)を読了。この本はすごいです。読了後思わず、本書でも引用されている「よのなか」の語釈を、手元の「新明解 国語辞典 第五版」で確かめてしまいました。

 よのなか【世の中】 同時代に属する社会を、複雑な人間模様が織り成すものととらえた語。愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。「物騒なー/ー〔=現世〕がいやになる」

う、うわあ。苦い。辞書としてだいぶ行き過ぎている気もしますが、「そういうものなのだよ」と説明されると「まったくそうだよね」と頷きたくなり、不思議と心に平安がもたらされる(私の感想です)、この哲学的な語釈こそが、「新明解」が人気を得た理由であり、辞書界で批判を受けた理由でもありました。この語釈を書いたのは山田忠雄。「新明解」の編集主幹でした。赤瀬川原平の『新解さんの謎』で「新明解」の語釈が一般にも知られ、ブームになったことは私も記憶しています。90年代でした。「新解さん」の「恋愛」の語釈などは、一時期雑談のちょっとしたネタとしてあちらこちらで聞かれたものです。一方、出版元の三省堂からは、同規模の辞書「三省堂国語辞典」も出され、版を重ねています。これを書いたのが見坊豪紀(ひでとし)。山田と見坊は、実は東大の同期生で、一緒に辞書を作っていたそうです。戦時中に出版された「明解国語辞典」と「明解」の第二版まではともに仕事をしたということなのですが、ある事件がもとで二人は袂を分かち、それぞれ理想の辞書を求めて突き進んでいく、という。戦後辞書史の謎に迫るノンフィクションです。

そもそも、言葉に向き合う人というのは、こわいぐらいに熱い、と私は実感しています。刀を持たせたら、考えの異なる相手を斬りかねない、ぐらい。言葉を語るやつに刀と一升瓶は持たせるな、というのが、短歌や新聞や校閲という業界に足をつっこんでいて私が覚えた知恵であります(まあ、なかなかそんな場面ないですけど)。私自身、言葉の使い方のせいで人間関係で失敗したことがありますので、「言葉はわたくしのものではない」ということを常に肝に銘じ、人の言葉についての考え方や感覚、使い方に対して寛容になるようにしています(短歌の作品では「わたくし」の言葉の使い方がけっこうあらわになる、いや、あらわにすべしと思っていますが)。

ですから、山田先生と見坊先生が別々の道を行くことになるのは必然、ということは腑に落ちました。それほどに、二人の言葉についての考え方、辞書についての理想が違っていたことを、本書は「新明解」「三省堂国語辞典」の語釈や、彼らを知る人への取材、彼らの残した数少ない語りから解き明かしていきます。彼らの理想の違いから個性の際立つ辞書が二つも生まれたわけで、辞書の利用者としては非常に豊かなものをありがとう、という気持ちにもなりますが、辞書作りの渦中にあっての相克と孤独は、いかに穏やかな人柄と見えた山田先生、見坊先生であっても心中すさまじいものだったであろうこと、想像がつきます。

著者・佐々木氏が本書の早い段階で、言葉の世界を、よく使われる「海」ではなく、「大砂漠」に喩えています。読み進めるにしたがって、「大砂漠」の喩えがじわじわと効いてきました。