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川を見てゐた手だらうかうつすらと電車の窓にしろき跡あり

詩歌の不意打ち

読売新聞1月12日朝刊の長谷川櫂さんのコラム「四季」にて、『galley』から

 川を見てゐた手だらうかうつすらと電車の窓にしろき跡あり

が掲載されました。結露した窓に誰かが手を添えている写真が付いていました。

ほかの地域は分からないのですが、「四季」は大阪版ではたいてい2面の左下隅の方にあります。つまり、政治などの硬めの記事が満載の中に、不意を衝いて小さく詩がある。岡井隆さんの「けさのことば」(中日新聞、東京新聞)も、坪内稔典さんの「季語刻々」(毎日新聞)も、同じようなサイズで、紙面の隅の方に不意を衝く感じで佇んでいます。最近は、通勤電車で新聞を読む人はあまり見かけませんが(みんなスマートフォンを見ています)、新聞を小さく折りたたんで見ている人もちらほらいて、まったく知らない人だしどこを読んでいるのか分からないけど「この人も詩の不意打ちをくらうのかなあ、くらうといいなあ」と勝手な期待をして、顔をそっと見てしまいます。

21日の「四季」は、

 海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海を見ている  五島諭

『緑の祠』からの一首でした。私は机の上で読みましたが、これをもしも通勤中に目にしていたなら、「今日は海に行かなくては」と思ったことでしょう。それほど不意打ち力の高い一首です。それでも海へは行かず、普通に会社に向かうぐらいの平常心を持っている自分がかなしくもありますが、まあ、そういうことです。日常の中に、光る石ころみたいな感じで、詩や歌や句が転がっており、そのたたずまいを実現した新聞の詩歌コラムのフォーマットってすごいな、と。誰が考えたんだろう。朝日新聞で連載されていた「折々のうた」より前にもあったのかどうか。

しかし今、新聞の詩歌コラムに優るとも劣らぬ、いや、超えているかもしれないフォーマット(あくまで私の中での比較です)が短歌にはあり、それがこちら。

https://twitter.com/CHIBASATO/status/420162997009412096/photo/1

千葉聡さんの桜丘高校の小さな黒板です。インターネットで見つけたのですが、これを目にしたときの、体がふわっと浮き上がる感じ、高揚感、桜丘高校だからってわけじゃないですけど目の前が桜色になる感じ。分かっていただけるでしょうか?(だれに聞いてんだ)。作者としては、紙媒体やインターネット上で引用されるのとはまた異なる感覚なのです。ここから遠くに、私の知らない桜丘高校という学校があって、小さな黒板に手書きで私の歌が書かれて、その前を知らない高校生たちが行き交っていて、ほとんどの人は通り過ぎるだけだろうけど、ふっと立ち止まる人がいるかもしれない、通り過ぎながら読んで「ふーん」と思った人がいたかもしれない、という想像(妄想)で、体温が1度高くなった気がしました。見知らぬ他者に届いている、という生(なま)の感覚(「届いているのかもしれない」という期待の喚起力)がこのフォーマットにはあるからでしょうか。読む方にしても、廊下で通りすがりに短歌、という不意打ちは心に大きく響くのではないかと思います。千葉さんがツイッターに上げてくださったからこうして知ることができました。千葉聡さん、ありがとうございました。これからも応援しています。