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川を見てゐた手だらうかうつすらと電車の窓にしろき跡あり

装幀放談(5)

ながらくの休憩、失礼しました。放談再開です。一気に最終回へ。

 

(4人のテーブルはいい具合にほろ酔いになり……) 

 

澤村:歌集の電子書籍化については、これからどうなっていくのか、興味深いところです。著者にとって、出版する形態の選択肢が増えるのは良いことだと思う。読者の手に届きやすくなるということが何より大切だと思う。ただ気になるのは、近年誰でも、早く、安く、歌集が出せるということを歓迎し過ぎたところはなかったか、と。本の価格のデフレじゃなくて、「本づくり(・・・)のデフレ」の流れに乗ったことについては、どうだったのかな、疑問に思うところがあります。時間をかけて、お金をて、作りたいものを作る粘りとか、力とか、そういうのは、世の中がデフレだろうがグローバル化だろうが、絶対失ってはいけないんじゃないか、と。濱崎さんの装幀も、何かを作ろうとするから、今までにない技術を、その本づくりのために編み出してきたわけでしょう。そこには、印刷会社や製本会社の技術努力も関わっていて、作り手の「やろう」という気と、「ここは譲れない」という頑固さがないと始まらない。いいものは、そこからない。 

永田:デフレねえ。

濱崎:電子書籍化は進むよ。それに短歌は、デジタル化に最も向いている文芸ジャンルな気もする。まだその特性を生かしきれていないだけで。それでも俺は紙が好きだけど。

澤村:そうですか。私も紙の歌集が好きです。うーん。あとは流通ですかね。手をかけて、お金をかけて、いいものを作って、でもそれが読者の手に届かなかったら意味がない。

 

(補足:後日、西野嘉章『装釘考』(平凡社ライブラリー)という本を読みました。日本近代の出版物の「装釘」を具体的な例を挙げながら考察したものです。当時の装丁の例として、歌集が数多く挙げられています。『かたわれ月』、『つゆ艸』『みだれ髪』『恋衣』、私の好きな服部躬治の『迦具土』など。装丁を一つのアートとみなす本づくりの源流が近代にあり、しかも歌集づくりが新鮮な装丁を生みだしてきたことがよく分かる書物です。本の「ジャケ買い」をよくしますが、ジャケ買いの精神も近代に発していたことが分かります。「装丁大好き」「手間ひまかけたい」と言っている時点で、つくづく自分は近代的な人間であると思いました) 

 

(装幀放談(6)最終回へつづく)